2014年5月1日木曜日

「日常と結びつけて考える力を育む授業」とは



私は、英語教師になるにあたり、教壇に立ったら、「日常と結びつけて考える力を育む授業」を展開したいと考えています。私の指導教員の授業で、John DeweyのDemocracy and Educationを読んで考えたことを以下に転載いたします。

(なお、わたしを含め、他の院生の思考はhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/search?q=Dewey+%E9%99%A2%E7%94%9Fに転載されています。)

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以下の内容は、某高校への研究授業に向かう車の中でM1のN君と話した内容です。実際の会話を、簡潔な形で抜粋します。


N 「教壇に立ったらどういう授業がしたい?」
私 「生徒が自ら、授業の内容を、全て実生活に結び付けながら聞く授業。生徒が考える授業をしたいと思ってる。」
N 「生徒に考えさせる授業か。おれも実習でその大切さを教わった。おれの指導教員は、『生徒にいかに考えさせるかが、教師の力量に直結する』とおっしゃってたな。その話、もう少し詳しくお願い。」
私 「例えば、サッカー部の子はサッカー部での経験と、授業内容を結びつけながら。部活していない子は、昨日読んだ本とか体験したことに結びつけて。」
N 「そうか、つまり柳瀬先生の授業でおれたちがやってきたやつだ。でも、①経験が浅い高校生にそれができるか?発達段階的に不可能では?あと、②じゃあ例えば、英語の文章をパラフレーズするやり方を教える授業をするんやったら、生徒はどういう風に実生活と結びつけたらいいの?」


 N君は、私よりはるかに教師になったときのことを具体的に考えており、かつ、努力を惜しまずやっている友人です。そんなN君と話していて、多くのことを考えさせられました。特に上の会話で出た2点は、私にとって重要な課題です。それらをDeweyに沿って考えていきたいと思います。 

① 発達段階 v.s. 悪習慣
 高校生は、人生経験が浅く、知識も大学生に比べて乏しいです。ここでは、そういった意味で発達段階と言うことにします。そういった高校生に、授業を通して、実生活に結びつけて考えさせる習慣を培うことは不可能なのでしょうか。つまり、知識を教師から一方的に教えることしかできないのか、あるいはその方が良いのでしょうか。  

 この点について、私は完全に反対の立場に立つことはできません。Deweyも”Knowledge, already attained knowledge, controls thinking and makes it fruitful.”と述べています。高校生は、おしなべて言えば、考える材料(知識や様々な経験)が大学生よりも少ないです。大学生が柳瀬先生の授業で日常と結びつけることができるのは、ある一定の知識を得ているからかもしれません(ちなみに私の場合、色んなものを結び付けて考える習慣がようやくついたのは、大学4年生くらいからでした)。また、高校生は、1日に6~8授業をこなしており、与えられる知識も膨大な量になります。膨大な知識量を詰めこまれるため、そもそも、考えることに体力を消費している暇がないのかもしれません。ただただ授業を受け続け、知識を教わり続け、椅子に座っている以外に、高校生ができる選択肢はないのかもしれません。もしそうなのであれば、私の目指す授業を展開するには、少なくとも、学校全体が動くことが必要になると思います。若手の下っ端教員である数年後の私にとって、それはあまり現実的ではありません。  

 しかし、それでも私は「生徒に考えさせる授業、日常に結びつける習慣がつく授業」を展開したいという思いがあります。ここで私が主張したいのは、「英語教師の授業形態によっては、英語の授業においてだけでも考える習慣がつくのではないか」ということです。Deweyは

…a theory apart from an experience cannot be definitely grasped even as theory. It tends to become a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible. (p.138)(拙訳:経験と離された教育内容は、教育内容としてすらきちんと理解されない。[経験と結びついていないならば、]教育内容は、思考や純粋な教育内容の構築を不要あるいは不可能にしてしまうために使われる、単なることばの形式や定型表現となってしまう。)


と述べています。教師のこのような授業形態(すなわち、生徒自身の経験と教育内容とを結びつけない授業)の連続が、生徒を考えることから遠ざけているのだと思います。高校生に知識が少ないからではなく、そもそも経験(すなわち日常)で考えることをさせずにいるという現状があるのではないでしょうか。英語教師が英語の授業で日常と結びつける術を教え、そうして考えることを授業内で行わせていけば、少なくとも英語の時間は日常で考えるようになってくれるのではないでしょうか。そう信じて、教壇に立った時には授業を展開してみたいと思います(粘り強くやってみて、それが駄目だったら、obstinacyにならないよう、方向転換を考えますが…)。 

② パラフレーズをどうやって日常で考える?
Deweyが

Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous.(p.140)


と述べている通り、「考えることは結びつけること」です。では、英語の授業でしばしば行われるパラフレーズの指導を例にとるならば、それはどのように日常と結びつくのでしょうか。

 英語の授業では、説明文教材などを用いてパラフレーズの仕方を学習します。指導が成功すれば、生徒は「こうやって言い換えをすれば、わかりやすくするのか」「こうやって文章を整理していけばいいんだ」といったことを学びます。生徒はこの技術を駆使して、期末試験やセンター試験などを解いていくことでしょう。

 しかし、この技術を英語のテストだけに用いるのはもったいないですし、そもそもそれでは意味がないと思います。テストで問われない限り、一生その技術を使う日などきません。それでは学校で教える意味がありません。

 私の経験から、パラフレーズを学ぶ意義を考えてみます。私の友人に、「難しい本の内容を簡潔に、昨日の講義の内容を簡潔に、面白いエピソードをきれいな形で」語れる人がいます。この能力はまさに、パラフレーズが上手い一例ではないでしょうか。パラフレーズは決して英語のテストで測られるものだけでなく、私の友人の例のように日常と直結しているものであり、生きる上で大切な能力です。これはまさにコミュニケーション能力であり、英語科が目標として掲げているものです。このように、日常に落として初めて、パラフレーズの英語授業はコミュニケーション能力に結びつくものになるのではないでしょうか。 

 以上が、私が「日常と結びつけて考える力を育む授業」を目指す理由と具体例です。今回はたまたまパラフレーズを教えるという事例を取り上げましたが、これは本来、生徒を前にして初めて考えるべきことです。しかし、院生である間も、目指す授業を実現すべく、できるだけ具体的に授業像を考えていきたいと思います。  

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